暖かな不便さ

 音楽の楽しみ方としてサブスクリプションのサービスが主流になってから随分(と言っても数年だけど)経った。

 かつて人々はCDで音楽を楽しみ、その前はレコードで楽しんでいた。他にはMDやカセット・テープなんてのもあった。

 僕が物心着いた時にはCDが主流で、よく父親の運転する車のステレオでCDを聴いていた。

 しかし今では車にiPhoneを繋いで、アップル・ミュージックでCDを入れ替える手間もなく音楽をかける。便利な世の中だ。

 

 確かに便利なのだが、何故かそこに少しの淋しさを感じてしまう。

 例えばCD。僕と同年代の人は気になる女の子(男の子)とCDの貸し借りをした経験があるかもしれない。しかし今は、曲やアルバムのリンクを送って終わりだ。ケースを割らないように気をつけて持って帰り、デッキに入れて最初から通して聴き、その後で返す時の「あの曲がよかった」とか「他のも貸してよ」というような懐かしい会話をすることもない。他にも中古屋を回って古いCDを集めたり、歌詞カードを眺めたり、そういったことはほとんど誰もしなくなってしまった。再生も、感想を伝えるのも、歌詞を読むのも、今は全て指先ひとつで済む。

 

 もちろん、全てが指先で済む今の状況を否定するわけではない(僕もサブスクリプションの音楽サービスはよく使う)けど、ふとした時に前述のような暖かな不便さが恋しくなる。なぜなのかは分からないが、不便さをも愛せる魅力が物にはあるのだと思う。

 

 これからもどんどん暖かな不便さが消え、クールで便利なものに取って代わられるのだろう。

 それでも古き良き不便さもたまには思い出しながら、そういった便利さを享受したいと思う。

 時代遅れと言われたらそれまでだが、自分の生きる時代は自分で決めたい。そして僕は、暖かな不便さが多少残る時代が好きなのだ。