犠牲にすることの美しさ

 こんにちは。今回は「犠牲」について書いていこうと思う。

 

 人は日々、何かを犠牲にしながら生きている。それは時間だったり、娯楽だったり、人間関係だったりする。そして、往々にして犠牲というものは美徳として語られる。「あの人は寝る間も惜しんで頑張った」とか、「恋人が友達との約束を蹴ってまで私に会いに来てくれた」とか、「あの人はサービス残業をしてくれた」とか、そういった類に。

 そういう言葉をきくといつも思うのが、「その犠牲は必要だったのだろうか?」ということだ。寝ずに頑張るよりも寝ながら頑張ったほうがいいし、友達との約束を蹴らずに恋人にも会いに行くほうが勿論いい。サービス残業なんて以ての外だ。しかし、なぜかそういう人たちは、「犠牲」を払った人に比べて褒められることはあまりない。

 ここでおかしいのは、「犠牲」が称賛の対象になっていることだろう。褒めるべきは頑張ったことであり、会いに来てくれたことであり、残業をしてくれたことだ。決して、寝る間を惜しんだことでも、友達との約束を蹴ったことでも、無賃で働いたことでもない。でも何故か褒められるのは往々にして後者の方だ。

 

 僕たちは幼少期から「犠牲」を美徳とする教えを刷り込まれている気がする(二兎を追うものは云々のように)。それによって僕たちは無意識のうちに犠牲にできるものを探し、消費していく。もしかしたらその犠牲がなくとも成し遂げられたかもしれないのに、だ。

 本来は何かを成し遂げるための犠牲だったはずが、犠牲のための「犠牲」となってしまっている。成し遂げた事柄より、「犠牲」にした事柄の方が大きなウエイトを占めてしまっているのだ。

 

 このような「犠牲」の呪縛から僕たちは抜け出さなくてはならない。そのためには、なるべく何も「犠牲」にしないで日々を送っていくしかないのかもしれない。二兎を追い続けていくことで、僕たちは本当に必要な犠牲だけを払い、美徳としての無意味な「犠牲」は払わなくて済むような人生を送れるようになるのだろう。

 つまるところ、「犠牲」を犠牲にして生きていくのだ。

 

暖めるための 火を絶やさないように

大事な物まで 燃やすところだった

 

若葉/スピッツ

 


スピッツ / 若葉