素晴らしき日々

 僕は酒を飲むのが好きだ。酔っ払ったときのふわふわした感じや、その場でしかできないような刹那的な会話、大きくなる自分の気持など、そういったものが好きだ。正確に言うと、僕は酒による副産物が好きだ。

 

 もちろん可愛い女の子と(可愛くなくても)飲む酒だったり、気の許せる友人と飲む酒は言うまでもないが、一人で飲む酒も同じくらい良い。一人で酒を飲みながら煙草を燻らせ思索に耽る。そういった時間は何物にも代えがたい。

 

 僕が店で一人で酒を飲むときは、ほとんど必ずバーボンウイスキーを頼む。別にバーボンウイスキーでなければだめなわけではないのだが、気がつくとバーボンを頼んでしまう。

 注文の順番も大体決まっている。1杯目はフォアローゼズのプラチナ。2杯目にブッカーズを頼む。3杯目はその時の気分で変える。ハーパー12年を飲むときもあればウッドフォードリザーブのときもある。どれも家においていない(おけない)酒ということだ。

 そうして3杯のウイスキーと10本ほどの煙草を楽しんでから店をでると、僕の気分は最高に落ち着いて高揚する。夜の澄んだ空気は心地よく、車のヘッドライトは暖かい。そういうとき、僕は思う。この瞬間のために酒を飲むのだ、と。

 

そうして家に帰って煙草臭いコートを脱ぎながら感じるのだ。素晴らしき日々とはこういうことを言うのだと。

死について考える時に僕が考えること

 死について考えたことがない人はいないと思う。曖昧なことの多い人生の中で、唯一確実なことは「いつか必ず死ぬ」ということだ。

 

 僕と同い年くらいの人は、大小の差はあれど、何かしらの形で死というものに触れたことがある思う。その時に感じた底なしの冷たさや闇の深さは、ほかの何ものにも代えられない。そんな死の世界にいつかは僕たちも足を踏み入れることになる。

 

 死というのは人生に於いてどんな意味を持つのだろうか。

 ある人は死をもって人生の意味はなくなると言う。

 しかし僕は、死をもってその人の人生に意味が生まれると考える。死の存在しない世界が存在したとして、果たしてその世界で人生を送る意味はあるのだろうか?なにか失敗を犯しても、時は永遠に続くのだからいくらでも取り返しがきく。そんな世界で成功を求める意味はあるのだろうか?

 逆に、僕たちは終わりがあることを知っているからこそ、人生に意味を見いだせるのではないか。世俗的な言葉を借りれば、締切効果のようなものでモチベーションを保って生きていられるのだろう。

 僕たちは死によって人生を無意味にさせられるのではなく、死によって生かされているのだ。

 

 そう考えると、死という存在が冷たくて暗いものではなく、なにか崇高なものに見えてくる。ゴールから僕たちの人生に意味を与え続けてくれる存在だ。僕たちは死ぬからこそ生きるのだ。

 

 まあ、そうは言っても死ぬのは怖いんだけどね。

僕の平成の音楽

 平成が終わりました。もはやどこでも使われていて安っぽいフレーズになってしまったけど、平成生まれ平成育ちの僕にとっては安っぽくも哀しいフレーズである。

 

 そんな平成に思いを馳せるために、平成生まれの僕が人生で出会った音楽の中で素晴らしいと思った曲を5つ紹介しようと思う(順不同)。

 

1.運命の人(スピッツ

 まず1つ目はこの曲。僕の一番好きなバンドの一番好きな曲です。これを紹介せずして僕の好きな音楽は語れない。

 僕がスピッツと出会ったのは平成21年のことだ。何の気なしに聴いてたラジオから流れてきた楓という曲に感動したのがきっかけだった。父親がもともとスピッツを好きだったので、色んなアルバムから何曲か厳選したCDを作ってもらい、それをすり減るんじゃないかというほど聴いていた。運命の人との出会いはそのCDだった。その後、僕は自分でもCDを集めてスピッツにドハマリしていくのだけど、それはまた別の機会に書こうと思う。

 正直言ってこの曲の歌詞の意味はよくわからない。しかし聴いていると歌詞の1フレーズが心に刺さったり、メロディが沁みたり、そういうことが起こる。

 僕は思うのだけど、音楽のいいところは意味がわからなくても説得力があるところだろう。そういった意味では、この曲は最高峰だと思っている。

 

バスの揺れ方で人生の意味が 解かった日曜日

でもさ 君は運命の人だから 強く手を握るよ

(運命の人)

 


スピッツ / 運命の人

 

2.Big Band Bingo(The Flipper's Guitar)

 フリッパーズ・ギターです。ここ数ヶ月のうちに聴くようになったバンドだ。このバンドの曲を聴くと、小山田の声と歌詞の世界観と渋谷系とも呼ばれる洒落たメロディがマッチして、色付きセロファンを通して世界を見てるかのようなチープで華やかな不思議な感覚が得られる。

 中でもこの曲はその色合いが強いと思う。僕はそこまで音楽の仕組みや作りには詳しくないので、どの楽器がとかどのフレーズがとかそういうことは言えないのだけど、とにかくこの曲を聴くと、どんな景色でも前述のような感覚で見えてくる。

 

カーラジオをつけて 僕が甘い言葉ささやくから

8月のサングラスは キュートすぎる君だとかなんとか

(Big band bingo)

 


Flipper's Guitar • Big Bad Bingo

 

3.それはちょっと(小沢健二

 フリッパーズ・ギターときたら小沢健二だろう(Corneliusはあまり聴かないけど)。

 聞き始めたのは小沢健二のほうが先で、フリッパーズ・ギターはあとだ。

 ソロの小沢健二の曲はフリッパーズ・ギターとは打って変わって一人称の主張が強くなった気がする。自転車で走る君をそのまま追い越していっちゃうロビンソンみたいな。

 そんな強くなった一人称の極地がこの曲だと思っている(こんなこと言ってたら長年の小沢健二ファンに怒られそうだけど)。The 王子様な曲である。

 ちょうど人間関係で考えすぎてたときにこの曲と出会い、歌詞に救われた思い出がある。わがままでもいいのだ、と。

 

きっと僕は死ぬまでずっとワガママだから

(それはちょっと) 

 


『それはちょっと』フル 小沢健二

 

4.MARINE I LOVE YOU(SOLEIL)

 平成も終わろうかという頃、ほんの数日前に僕の心を掴んだバンドがSOLEILである。幼いヴォーカルの声と、最近のバンドにはない隙間のある心地よい演奏が妙に気持ちいい。

 そんなSOLEILのファースト・アルバムに入っている曲だ。キャッチーなメロディにキャッチーな声にキャッチーな歌詞と三拍子揃った曲だが、それをまだ純粋な中学生が歌っているというのがいい。最近はSOLEILばかり聴いている。

 ちなみにこの曲は楳図かずおわたしは真悟という漫画をモチーフにしているらしいけど、その漫画を僕は知らないので歌詞の意味とかはよくわからない。

 

マリン マリン  マリン I love you

誰も気づかない

マリン マリン  マリン I love you

誰も気づかないの

(MARINE I LOVE YOU)

 


SOLEIL / 「MARINE I LOVE YOU」MUSIC VIDEO

 

5.REMEMBER(L⇔R

 L⇔Rです。バンドの今や歴史を考えると、どの曲も素晴らしく(儚く)聴こえてしまうのだが、敢えて1つ挙げるならこの曲を選ぶ。誰しも夏に対しては儚さを感じ、思い出を美化してしまうものだと僕は勝手に思っているのだけど、この曲はそうした夏の特別な空気感をよく表している。多くは語らないが、聴いてもらえれば僕の言わんとすることがわかるのではないか。

 

Remember からまった ロープほどいて

答えむすび合わせた僕を すり抜けていった

夏の魔術を 忘れないよ

Fall in love

(REMEMBER)

 


L⇔R "REMEMBER" short ver.

 

 

 以上が僕の平成を彩ってくれた曲たちだ。

 令和がもう始まったわけだけど、これからも色んな音楽を聴きながら楽しく過ごしていけたらと思う。

 

 おすすめのバンドとかあったら教えてください。

言葉について

 こんにちは。久しぶり。

 

 みなさんは言霊を信じますか?言葉には魂が宿っているとかいうアレです。ちなみに僕は信じます。だからあまりネガティブなことは言わないようにしている(つもりだ)し、ら抜き言葉のような(僕の主観で)美しくない言葉遣いはしないように気をつけている。

 だからと言って日々の生活が変わるわけではないし、いいことがあるわけでもない。ネガティブなことを言わなくてもネガティブなことは起こるし、美しい言葉遣いを心がけても僕という人間が美しくなるわけではない。ただの自己満足だ。

 でも、そういう自己満足こそが僕の心を満たしてくれる。文字からして当然のことだけど。

 

 閑話休題。言霊について。

 日本に限ったことかは知らないけど、とりあえずこの国には言霊思想のようなものが根付いている。誰かの噂をすれば影がさすように。

 しかし、ここ数年でそういった文化が急激に薄れていっているように感じる。人々は言葉を大切にせず、なんの躊躇いもなく美しくない言葉を使う。流れる音楽からは文学性が削ぎ落とされ、耳障りのいい言葉だけが聞こえてくる。

 別にそういう風潮を作った犯人を探すつもりは無い(探したくもない)し、誰がそういうことをしているかなんてのも興味が無い。ただ、言霊を信じている僕からすると、彼らが言葉を軽く扱うことで酷い目に合わないかお節介ながら心配なのである。

 

 究極的なことを言えば、誰がどんな言葉を使おうが当人の自由であるべきだ。だから人の言葉遣いにケチをつけるつもりは全くない。しかし、どんなに周りが言葉を軽く扱おうと、僕だけは言霊に想いを馳せながら、大切に言葉を遣っていこうと思うのだ。

 

 最後に、ここに書かれていることは全部僕の主観なので文句は受け付けません。悪しからず。

 

 自己満足のために。

犠牲にすることの美しさ

 こんにちは。今回は「犠牲」について書いていこうと思う。

 

 人は日々、何かを犠牲にしながら生きている。それは時間だったり、娯楽だったり、人間関係だったりする。そして、往々にして犠牲というものは美徳として語られる。「あの人は寝る間も惜しんで頑張った」とか、「恋人が友達との約束を蹴ってまで私に会いに来てくれた」とか、「あの人はサービス残業をしてくれた」とか、そういった類に。

 そういう言葉をきくといつも思うのが、「その犠牲は必要だったのだろうか?」ということだ。寝ずに頑張るよりも寝ながら頑張ったほうがいいし、友達との約束を蹴らずに恋人にも会いに行くほうが勿論いい。サービス残業なんて以ての外だ。しかし、なぜかそういう人たちは、「犠牲」を払った人に比べて褒められることはあまりない。

 ここでおかしいのは、「犠牲」が称賛の対象になっていることだろう。褒めるべきは頑張ったことであり、会いに来てくれたことであり、残業をしてくれたことだ。決して、寝る間を惜しんだことでも、友達との約束を蹴ったことでも、無賃で働いたことでもない。でも何故か褒められるのは往々にして後者の方だ。

 

 僕たちは幼少期から「犠牲」を美徳とする教えを刷り込まれている気がする(二兎を追うものは云々のように)。それによって僕たちは無意識のうちに犠牲にできるものを探し、消費していく。もしかしたらその犠牲がなくとも成し遂げられたかもしれないのに、だ。

 本来は何かを成し遂げるための犠牲だったはずが、犠牲のための「犠牲」となってしまっている。成し遂げた事柄より、「犠牲」にした事柄の方が大きなウエイトを占めてしまっているのだ。

 

 このような「犠牲」の呪縛から僕たちは抜け出さなくてはならない。そのためには、なるべく何も「犠牲」にしないで日々を送っていくしかないのかもしれない。二兎を追い続けていくことで、僕たちは本当に必要な犠牲だけを払い、美徳としての無意味な「犠牲」は払わなくて済むような人生を送れるようになるのだろう。

 つまるところ、「犠牲」を犠牲にして生きていくのだ。

 

暖めるための 火を絶やさないように

大事な物まで 燃やすところだった

 

若葉/スピッツ

 


スピッツ / 若葉

自己紹介

 こんにちは。

 僕は男で、ちょっと勉強すれば誰でも入れるような私大で哲学を学んでいます。好きなものはそのうち記事で書いていくつもりです。

 

 ある小説家の言葉を借りると、このブログは僕の自己療養のためのものです。ですから、このブログを読む人は僕の独り言を覗いているような気分で読んでもらえると精神衛生的にいいのではないかと思います。

 

 更新頻度も投稿内容も考えていませんが、思いついた時に思いついたことを書いていこうと思います。よろしく。f:id:zaw_a:20190308031058j:image