テールランプを追いかける。
かわりばんこに僕を照らす街燈は無機質な神様。
神様は平等に人々を照らし、僕は全ての光を平等に受ける。
テールランプが消える。
世界には僕と街燈だけが残る。
神様は僕に語りかける。
このままでいいのかい?
車を停めて頭を振る。
ため息をついてハンドルを握りなおす。
アクセルを踏み込んだエンジン音は神様に捧げる汽笛。
テールランプを追いかける。
かわりばんこに僕を照らす街燈は無機質な神様。
神様は平等に人々を照らし、僕は全ての光を平等に受ける。
テールランプが消える。
世界には僕と街燈だけが残る。
神様は僕に語りかける。
このままでいいのかい?
車を停めて頭を振る。
ため息をついてハンドルを握りなおす。
アクセルを踏み込んだエンジン音は神様に捧げる汽笛。
今年で26歳になった。
僕を小さい頃から知る身内や親戚にそんな話をすると、いつの間にそんなに大きくなったんだ、というようなことを言われる。僕もそう思う。ほんの数年前まで僕は生意気な高校生だった気がする。しかし時の流れはあまりにも早く、高校時代からは10年が経ち、当時の生意気な自分を恥ずかしく感じたり、古い友達とは昔話ばかりしてしまったり、そんな風になってしまった。
子供の頃は早く大人になりたいな、と思ったり、大人にはなりたくないな、と思ったり、歳をとるということをぼんやりとしか考えていなかった。そしていざ大人になってみると、大人になってよかったな、と思ったり、昔に戻りたいな、と思ったり、結局大人になるということをうまく捉えられずにいる。
ただ、確実にわかるのは以前のような気力が減ってきた、ということだ。昔の僕は気力に満ちており、(最初の方に書いたとおり)生意気で、他人のことをあまり考えず、自分の快楽のために生きていたような気がする。もちろんそれが全て悪い訳ではないけれど、色んな人に嫌な思いをさせたり、無理をさせたりと、迷惑をかけたと思う(今では申し訳ないことをしたと思っている)。しかし今では(多少)他人の顔色を伺うようになり、自分の発言や行動が相手に及ぼす影響を考えたりするようになった。そうしているうちに何かを言ったり何かをするのが面倒になってしまい、言わない/やらないといったことが多々ある。また、やりたい/やりたくないで行動するのではなく、やるべき/やらないべきで行動するようになった。好奇心ではなく、義務感で行動するようになったのだ。もちろん今でも好奇心はあるし、それに基づいて動くことはあるが、昔と比べるとかなり減ったような気がする。
僕は好奇心を取り戻したい。
余計なことを考えず、やりたいことをやりたいようにやりたい。しかし、今となってはそれが全て叶うわけではない。やりたいことだけをやっていたら生活はできないし、誰かから怨みを買うことだってあるだろう。歳をとるというのはそういうことだ。
ただ、「好奇心を取り戻したい」という気持ちは死ぬまで忘れてはいけないと思う。
もしかしたら色んなものと折り合いをつけながら上手くできる方法を思いつくかもしれないし、折り合いなんてつけなくてよくなるかもしれない。大人になった悲しみに負けてはいけないのだ。
どんな拷問を受けても心が折れず絶対に口を割らないスパイのように、どんなに無気力になる出来事が起こっても、この気持ちを忘れずにいたい。
この文章を10年後に読んだら、まだまだ生意気じゃないか、と思うかもしれないが、何かの折にこの文章が自分の役に立つことを願っている。
音楽の楽しみ方としてサブスクリプションのサービスが主流になってから随分(と言っても数年だけど)経った。
かつて人々はCDで音楽を楽しみ、その前はレコードで楽しんでいた。他にはMDやカセット・テープなんてのもあった。
僕が物心着いた時にはCDが主流で、よく父親の運転する車のステレオでCDを聴いていた。
しかし今では車にiPhoneを繋いで、アップル・ミュージックでCDを入れ替える手間もなく音楽をかける。便利な世の中だ。
確かに便利なのだが、何故かそこに少しの淋しさを感じてしまう。
例えばCD。僕と同年代の人は気になる女の子(男の子)とCDの貸し借りをした経験があるかもしれない。しかし今は、曲やアルバムのリンクを送って終わりだ。ケースを割らないように気をつけて持って帰り、デッキに入れて最初から通して聴き、その後で返す時の「あの曲がよかった」とか「他のも貸してよ」というような懐かしい会話をすることもない。他にも中古屋を回って古いCDを集めたり、歌詞カードを眺めたり、そういったことはほとんど誰もしなくなってしまった。再生も、感想を伝えるのも、歌詞を読むのも、今は全て指先ひとつで済む。
もちろん、全てが指先で済む今の状況を否定するわけではない(僕もサブスクリプションの音楽サービスはよく使う)けど、ふとした時に前述のような暖かな不便さが恋しくなる。なぜなのかは分からないが、不便さをも愛せる魅力が物にはあるのだと思う。
これからもどんどん暖かな不便さが消え、クールで便利なものに取って代わられるのだろう。
それでも古き良き不便さもたまには思い出しながら、そういった便利さを享受したいと思う。
時代遅れと言われたらそれまでだが、自分の生きる時代は自分で決めたい。そして僕は、暖かな不便さが多少残る時代が好きなのだ。
僕は酒を飲むのが好きだ。酔っ払ったときのふわふわした感じや、その場でしかできないような刹那的な会話、大きくなる自分の気持など、そういったものが好きだ。正確に言うと、僕は酒による副産物が好きだ。
もちろん可愛い女の子と(可愛くなくても)飲む酒だったり、気の許せる友人と飲む酒は言うまでもないが、一人で飲む酒も同じくらい良い。一人で酒を飲みながら煙草を燻らせ思索に耽る。そういった時間は何物にも代えがたい。
僕が店で一人で酒を飲むときは、ほとんど必ずバーボンウイスキーを頼む。別にバーボンウイスキーでなければだめなわけではないのだが、気がつくとバーボンを頼んでしまう。
注文の順番も大体決まっている。1杯目はフォアローゼズのプラチナ。2杯目にブッカーズを頼む。3杯目はその時の気分で変える。ハーパー12年を飲むときもあればウッドフォードリザーブのときもある。どれも家においていない(おけない)酒ということだ。
そうして3杯のウイスキーと10本ほどの煙草を楽しんでから店をでると、僕の気分は最高に落ち着いて高揚する。夜の澄んだ空気は心地よく、車のヘッドライトは暖かい。そういうとき、僕は思う。この瞬間のために酒を飲むのだ、と。
そうして家に帰って煙草臭いコートを脱ぎながら感じるのだ。素晴らしき日々とはこういうことを言うのだと。
死について考えたことがない人はいないと思う。曖昧なことの多い人生の中で、唯一確実なことは「いつか必ず死ぬ」ということだ。
僕と同い年くらいの人は、大小の差はあれど、何かしらの形で死というものに触れたことがある思う。その時に感じた底なしの冷たさや闇の深さは、ほかの何ものにも代えられない。そんな死の世界にいつかは僕たちも足を踏み入れることになる。
死というのは人生に於いてどんな意味を持つのだろうか。
ある人は死をもって人生の意味はなくなると言う。
しかし僕は、死をもってその人の人生に意味が生まれると考える。死の存在しない世界が存在したとして、果たしてその世界で人生を送る意味はあるのだろうか?なにか失敗を犯しても、時は永遠に続くのだからいくらでも取り返しがきく。そんな世界で成功を求める意味はあるのだろうか?
逆に、僕たちは終わりがあることを知っているからこそ、人生に意味を見いだせるのではないか。世俗的な言葉を借りれば、締切効果のようなものでモチベーションを保って生きていられるのだろう。
僕たちは死によって人生を無意味にさせられるのではなく、死によって生かされているのだ。
そう考えると、死という存在が冷たくて暗いものではなく、なにか崇高なものに見えてくる。ゴールから僕たちの人生に意味を与え続けてくれる存在だ。僕たちは死ぬからこそ生きるのだ。
まあ、そうは言っても死ぬのは怖いんだけどね。
平成が終わりました。もはやどこでも使われていて安っぽいフレーズになってしまったけど、平成生まれ平成育ちの僕にとっては安っぽくも哀しいフレーズである。
そんな平成に思いを馳せるために、平成生まれの僕が人生で出会った音楽の中で素晴らしいと思った曲を5つ紹介しようと思う(順不同)。
まず1つ目はこの曲。僕の一番好きなバンドの一番好きな曲です。これを紹介せずして僕の好きな音楽は語れない。
僕がスピッツと出会ったのは平成21年のことだ。何の気なしに聴いてたラジオから流れてきた楓という曲に感動したのがきっかけだった。父親がもともとスピッツを好きだったので、色んなアルバムから何曲か厳選したCDを作ってもらい、それをすり減るんじゃないかというほど聴いていた。運命の人との出会いはそのCDだった。その後、僕は自分でもCDを集めてスピッツにドハマリしていくのだけど、それはまた別の機会に書こうと思う。
正直言ってこの曲の歌詞の意味はよくわからない。しかし聴いていると歌詞の1フレーズが心に刺さったり、メロディが沁みたり、そういうことが起こる。
僕は思うのだけど、音楽のいいところは意味がわからなくても説得力があるところだろう。そういった意味では、この曲は最高峰だと思っている。
バスの揺れ方で人生の意味が 解かった日曜日
でもさ 君は運命の人だから 強く手を握るよ
(運命の人)
フリッパーズ・ギターです。ここ数ヶ月のうちに聴くようになったバンドだ。このバンドの曲を聴くと、小山田の声と歌詞の世界観と渋谷系とも呼ばれる洒落たメロディがマッチして、色付きセロファンを通して世界を見てるかのようなチープで華やかな不思議な感覚が得られる。
中でもこの曲はその色合いが強いと思う。僕はそこまで音楽の仕組みや作りには詳しくないので、どの楽器がとかどのフレーズがとかそういうことは言えないのだけど、とにかくこの曲を聴くと、どんな景色でも前述のような感覚で見えてくる。
カーラジオをつけて 僕が甘い言葉ささやくから
8月のサングラスは キュートすぎる君だとかなんとか
(Big band bingo)
Flipper's Guitar • Big Bad Bingo
フリッパーズ・ギターときたら小沢健二だろう(Corneliusはあまり聴かないけど)。
聞き始めたのは小沢健二のほうが先で、フリッパーズ・ギターはあとだ。
ソロの小沢健二の曲はフリッパーズ・ギターとは打って変わって一人称の主張が強くなった気がする。自転車で走る君をそのまま追い越していっちゃうロビンソンみたいな。
そんな強くなった一人称の極地がこの曲だと思っている(こんなこと言ってたら長年の小沢健二ファンに怒られそうだけど)。The 王子様な曲である。
ちょうど人間関係で考えすぎてたときにこの曲と出会い、歌詞に救われた思い出がある。わがままでもいいのだ、と。
きっと僕は死ぬまでずっとワガママだから
(それはちょっと)
平成も終わろうかという頃、ほんの数日前に僕の心を掴んだバンドがSOLEILである。幼いヴォーカルの声と、最近のバンドにはない隙間のある心地よい演奏が妙に気持ちいい。
そんなSOLEILのファースト・アルバムに入っている曲だ。キャッチーなメロディにキャッチーな声にキャッチーな歌詞と三拍子揃った曲だが、それをまだ純粋な中学生が歌っているというのがいい。最近はSOLEILばかり聴いている。
ちなみにこの曲は楳図かずおのわたしは真悟という漫画をモチーフにしているらしいけど、その漫画を僕は知らないので歌詞の意味とかはよくわからない。
マリン マリン マリン I love you
誰も気づかない
マリン マリン マリン I love you
誰も気づかないの
(MARINE I LOVE YOU)
SOLEIL / 「MARINE I LOVE YOU」MUSIC VIDEO
L⇔Rです。バンドの今や歴史を考えると、どの曲も素晴らしく(儚く)聴こえてしまうのだが、敢えて1つ挙げるならこの曲を選ぶ。誰しも夏に対しては儚さを感じ、思い出を美化してしまうものだと僕は勝手に思っているのだけど、この曲はそうした夏の特別な空気感をよく表している。多くは語らないが、聴いてもらえれば僕の言わんとすることがわかるのではないか。
Remember からまった ロープほどいて
答えむすび合わせた僕を すり抜けていった
夏の魔術を 忘れないよ
Fall in love
(REMEMBER)
以上が僕の平成を彩ってくれた曲たちだ。
令和がもう始まったわけだけど、これからも色んな音楽を聴きながら楽しく過ごしていけたらと思う。
おすすめのバンドとかあったら教えてください。
こんにちは。久しぶり。
みなさんは言霊を信じますか?言葉には魂が宿っているとかいうアレです。ちなみに僕は信じます。だからあまりネガティブなことは言わないようにしている(つもりだ)し、ら抜き言葉のような(僕の主観で)美しくない言葉遣いはしないように気をつけている。
だからと言って日々の生活が変わるわけではないし、いいことがあるわけでもない。ネガティブなことを言わなくてもネガティブなことは起こるし、美しい言葉遣いを心がけても僕という人間が美しくなるわけではない。ただの自己満足だ。
でも、そういう自己満足こそが僕の心を満たしてくれる。文字からして当然のことだけど。
閑話休題。言霊について。
日本に限ったことかは知らないけど、とりあえずこの国には言霊思想のようなものが根付いている。誰かの噂をすれば影がさすように。
しかし、ここ数年でそういった文化が急激に薄れていっているように感じる。人々は言葉を大切にせず、なんの躊躇いもなく美しくない言葉を使う。流れる音楽からは文学性が削ぎ落とされ、耳障りのいい言葉だけが聞こえてくる。
別にそういう風潮を作った犯人を探すつもりは無い(探したくもない)し、誰がそういうことをしているかなんてのも興味が無い。ただ、言霊を信じている僕からすると、彼らが言葉を軽く扱うことで酷い目に合わないかお節介ながら心配なのである。
究極的なことを言えば、誰がどんな言葉を使おうが当人の自由であるべきだ。だから人の言葉遣いにケチをつけるつもりは全くない。しかし、どんなに周りが言葉を軽く扱おうと、僕だけは言霊に想いを馳せながら、大切に言葉を遣っていこうと思うのだ。
最後に、ここに書かれていることは全部僕の主観なので文句は受け付けません。悪しからず。
自己満足のために。